ゆうべつ@サッポロ/筑波大学名誉教授・紙屋克子さん(下)
古くは「植物状態」と言われた遷延(せんえん)性意識障害の患者と家族に紙屋さんが初めて接した新米看護師のころ、「例えば脳腫瘍を摘出すれば医学的な治療としては成功。もし意識障害になったとしても仕方がない」となんとなく受け入れているところがあったという。
だが、患者の家族には「命は救ってもらったけれど、治してもらったことになっていない」という思いがあり、患者が生きているのに喜びを感じていないという悲しい現実があった。
看護で何かできることはあるか。問題意識を持って考え始めた。まず「仕方がない」と考えるのはやめた。寝ながらも考えてみた。「そういえば、自分たちは寝たまま食事しないよね」
つぶさに観察、サインを見逃さない
ある患者に管から栄養をとるときは体を起こすことにした。今日は何月何日であなたはなぜ病院にいるかなどを語りかけるといったことも繰り返し続けた。そんな行動に半信半疑の先輩たちには「まず仕事を覚えなさい」とも言われたが、あるとき「私の声が聞こえたら手を握って」と語りかけると患者が強く握り返してきた。先輩たちも驚き、「あんたがやっていたのはこういうことだったのね」と理解してくれ、勉強会も開いて一緒に取り組み始めた。
個人差もあり、遷延性意識障害の患者がみな反応するわけではない。「実験台にしないで」と家族の反発を受けることもあった。が、患者をできるだけ日常生活に近い環境に置き、つぶさに根気よく観察していると、何らかの反応に気付くことがある。
掛けていないはずのシーツが胸に掛かっている。血圧を測る看護師の胸のあたりに手が伸びる。どうやら自分で掛けたり、看護師の胸ポケットに差したペンを求めたりしているようだ。実際にペンを渡すと握って自分の名前を書いた。言葉を発しない人が字を書くという発想がなかったといい、こうしたサインを見逃さず、それをみんなで共有して、サインの意味を考えるようになった。
紙屋さんは昭和54年(1979年)、11年間勤めた北海道大学の病院を辞めて看護職からいったん離れ、北星学園大学の社会福祉学科で学び始めた。卒業後の昭和60年に新たに開院した札幌麻生(あざぶ)脳神経外科病院の看護部長・副院長に就任。再び意識障害患者らが意識を取り戻すためのケアを実践し、働きながら夜間に北海学園大学の法律学科や大学院の修士課程で法律を学んだ。
「いろいろ制約されることがある患者の権利を考えたかったので。何らかの制度を作るためには法律も必要。医療訴訟が増えていた時期でもあり、患者を守るために必要なことも看護師に伝えたかった」。大学通いも看護の延長線上だった。
意識障害ケア、全国から注目
平成4年(1992年)6月、麻生脳神経外科病院の看護部が大きく注目される出来事があった。半年間にわたって病院の日常を記録したドキュメンタリー番組の「NHKスペシャル あなたの声が聞きたい」の放送だった。大きな反響を呼び、看護部の実践が全国に知られるようになった。これがきっかけで、看護部は翌年の第27回吉川英治文化賞を受賞した。
病院で看護研究所をつくろうという話も持ち上がった。そのころ、筑波大学の大学院から看護の専門コースをつくるので、紙屋さんに来てほしいという依頼があった。札幌でやることがあると、これは断った。しかし、医師の院長や後輩が「こんないい話を断るなんて。中央で後進を育てる仕事をしなさい」と背中を押してくれた。平成7年、筑波大学大学院医科学研究科の教授に転身した。
意識障害患者への看護手法の開発や後進の育成に意欲的に取り組む一方で、車いす利用者の社会参加も積極的に働きかけてきた。翌平成8年、患者が車いすでねぶたに参加する「ケア付き青森ねぶた」をスタートさせ、医師や看護師などの専門職を巻き込んで定着させてきた。
母校で受けた温かなリアクション
平成12年、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」に出演した。訪ねたのは本来の母校志撫子小学校が統合された芭露小学校。NHKスペシャルの放送を見てもらった。意識障害患者の話は難しいと考えがちだが、感想を聞くと「患者さんが頑張っていた」という答えがあったのが印象的だった。
親が看護師の人はいますかとも尋ねた。目の前で手を挙げた母親が看護師の女の子に「お母さんをどう思いますか」と聞いたら、ぱっと立ち上がって「かっこいいと思います」と答え、クラス中から拍手が起きた。「答えた子も拍手した子もすごいなと思った。それは私にとってもうれしいことでした」。子どもたちの温かな反応は、看護師を続けてきた紙屋さんへのご褒美でもあった。
ベッドサイドの最後の砦
高校を出てから学生、看護師、大学教員として看護の世界に身を置いてきた60年。「ベッドサイドでたたかう最後の砦が看護師」と後進に説く。「言葉は力を持つ」とも言う。遷延性は意識障害が長引いている意味で回復する可能性があり、自分で食べたり座ったりする日常生活の行動が制限されている人ととらえる。「言葉を変え、意識の文字も取り払って『日常生活行動障害』。だから一つでも多くのことができるようにしましょう」と患者や家族と向き合う。
こうした看護は診療報酬の面では評価されず、多くの看護師が実践したくてもできない課題でもあるが、これもあきらめずに訴えかけを続けていく覚悟だ。
バイタリティあふれる行動に感じ入るが、「やりがいがあったし、なんということもなく淡々と違和感もなく目の前に広がった環境でやりたいことをやってきただけ」といい、「それは周りの人に恵まれていたからできたことでした」と振り返る。
7月にあった授与式で、日本赤十字社名誉総裁である皇后雅子さまと接し、記章を胸に付けていただいた後、紙屋さんら受章者3人が雅子さまと懇談する機会があったという。雅子さまからは意識障害患者の看護で「多くの人が頑張っているのですね」と、ねぎらいのお言葉をかけていただいたという。
紙屋さんは「あまり肩書にはこだわらないほうですが、雅子さまから受けた今回の受章を後押しの力にかえて、これからも活動をつづけていきます」と気持ちを新たにする。今も実地指導で全国を駆け回っているが、日本赤十字社の関係者に「受章でもっと忙しくなるでしょうが、呼ばれたら行ってください」と言われたそう。もちろん、それが役目だと思っている。「名刺にも受章を使わせてもらいます。あっ、さっそく刷り直さなきゃ」と笑顔で言った。
(取材・文/ふるさと特派員 島田賢一郎)
