ゆうべつ@サッポロ/筑波大学名誉教授・紙屋克子さん(上)

記章を手にする紙屋さん
記章を手にする紙屋さん
記章の裏面には紙屋さんの名前とラテン語で「博愛の功徳を顕揚し、これを永遠に世界に伝える」の言葉が刻まれている
記章の裏面には紙屋さんの名前とラテン語で「博愛の功徳を顕揚し、これを永遠に世界に伝える」の言葉が刻まれている

【フローレンス・ナイチンゲール記章】
顕著な功績があった世界各国の看護師を顕彰するため、ナイチンゲール(1820-1910)の生誕100年を記念して大正9年(1920年)に第1回の授与が行われた。赤十字国際委員会が隔年で受章者を発表している。日本から紙屋さんら3人が受章した今回で50回の節目。受章者は世界で1,615人、日本からは最も多い118人が受章している。

 湧別町志撫子出身で筑波大学名誉教授の紙屋克子さん(78)=札幌市在住=が「第50回フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章した。令和7年7月31日(木曜日)に開かれた授与式では、日本赤十字社名誉総裁の皇后雅子さまから直接、記章を授与された。

 受章は5月に発表され、本人は比較的冷静に受け止めていたそうだが、周りの人が「取り組んできたことが世界に認められてよかったね」ととても喜んでくれて、受章の重みを実感したという。これまでかかわった患者さんや家族、同僚の看護師らから記念のメッセージや写真をつづったアルバムが授与式の前に届いた。「みんなで声をかけて1週間くらいで作ってくれたそうです」とほほ笑んだ。 

アルバムを持つ紙屋さん
アルバムの表紙

 紙屋さんは一貫して、看護や後進指導の現場を歩んできた。そこで残した遷延(せんえん)性意識障害患者の看護実践や得られた技術・知識の普及活動などが認められ、今回の受章になった。

 しかし、もともとは看護師になるつもりはなかったという。

教えることが好きなので

 紙屋さんは昭和21年(1946年)、上渚滑村(現・紋別市)で生まれた。父母と兄姉が中国から父阿部松男さんの実家があった上渚滑に引き揚げていた。5歳ぐらいのときに母紫奈(しな)さんの実家のある志撫子へ一家で引っ越し、志撫子小学校、中学校、湧別高校に通った。

 スポーツが好きで、ソフトボールやスキー、スケートと何でもやる活発な子だった。高校を卒業してからはテニス、社会に出てからも夫の手ほどきで卓球やスキーの腕を磨いた。パラグライダーもやったそうで、好奇心旺盛なチャレンジャーだ。

 ただ、高校時代は汽車通学のためスポーツなどの部活動は封印。汽車の待ち時間や乗車中は同級生と英単語を覚えるなど試験勉強に力を入れた。その視野の先にあったのは、学校の先生だった。下の妹の宿題に口を出しては「しつこい」と言われていたが、自分の理解度が確認でき、何より人に教えることが好きだった。そんな自分が向いているのは「教師」という思いは強かった。

進路を定めた母の体験

 転機は進路を決めるころに出された、親にいろいろ聞く課題だった。さまざまな項目の中で、紫奈さんに「一番つらい体験」を尋ねた。答えは「子を失うこと」だった。中国から引き揚げる途中、紙屋さんの兄が亡くなっていた。栄養失調だったと思われるが、20年近くたっても自分にしがみつく我が子の小さな手の感触が思い出される母の思いを知った。

 「看護師になるためではなく、母として子を守るため、専門的に看護を学ぼう」という気持ちが芽生えた。調べると、当時、教師になるために受けようと考えた大学に受験時の年齢制限はないが、北海道大学の看護学校には年齢制限があった。紙屋さんは看護を学んでから教師を目指す方向に舵を切った。

インタビューを受ける紙屋さん

かみや・かつこさん
湧別高校から北海道大学医学部附属看護学校に進み、同医学部附属病院脳神経外科、精神神経科に11年勤務。離職して北星学園大学文学部社会福祉学科で学び、昭和60年(1985年)に札幌麻生(あざぶ)脳神経外科病院看護部長に就任。勤務しながら北海学園大学の法学部法律学科を卒業、大学院修士課程を修了した。平成7年(1995年)から筑波大学大学院医科学研究科教授などを務め、平成20年から筑波大学名誉教授。

父の「十箇条」、やがて仕事の流儀に

 札幌に出るとき、松男さんから「十箇条」を見せられた。旧満州(中国東北部)の満州鉄道の鉄道員で駅長を務めた父は聡明で厳格だったといい、一つ一つ説明された十箇条には第一印象が大事、人に頼まれた仕事は最優先、礼儀正しく、誠実に、といったことが書かれていた。

 「あまり笑わないし、中学くらいまでは自分がやると手を挙げる割に続かなかった」と自戒する紙屋さん。そのとき、笑顔を絶やさず、いやな仕事も率先し、有言実行、最後まで責任をもってやり抜くことを心に誓った。社会に出て「あきらめない看護」を繰り返し訴え、周りの人たちに理解してもらいながら、少しずつ巻き込んでいく仕事のスタイルにつながっていく。

 看護学校では、予定通り2年までは教師を目指して大学の受験勉強もしていた。が、3年になって担任が代わったことで環境がガラリと変わる。

熱血担任の「北の大地から切り開く」に共鳴

 「日本の看護教育は変わる」「北の大地から新しい時代を切り開く」と熱弁をふるう先生で、紙屋さんは「大げさに言うと雷に打たれたように考えが根底から覆る感覚」に陥ったという。大学に行って教師になる勉強をするのと、新しい看護の道を切り開くのを比べたとき、やりがいはどちらか。おのずと「切り開く」に傾き、教師の道は頭から消えた。

 そのころ、北大医学部の病院の脳神経外科も変わり始めていた。アメリカに留学して帰って来た医師が増え、医師と看護師は対等という考えが広がりつつあった。24時間野戦病院のような感じの救急現場の光景を実習生が後方で見ていると、脳外科医の先生が来なさいと手招きして前に出してくれて、教授が処置している間も今何をしているか説明してくれた。ほかの診療科ではないことだった。

 「勤めるなら脳神経外科しかない」と決めた。看護学校生の勤務先は他校の学生が決まった後の「くじ引き」という運任せの決め方だったが、思いはかなった。

 昭和43年(1968年)4月、脳神経外科で看護師の道を歩み始めた。そして間もなく、自身の著書「私の看護ノート」に書き記した「今でも鮮やかに思い出す一つの情景」に出合う。

 それは、遷延性意識障害患者の病室に初めて入ったときに振り向いた家族の希望のない、疲れ切った、迫るように何かを訴えているかのような表情だった。

【「紙屋克子さん(下)」に続く】

(取材・文/ふるさと特派員 島田賢一郎)