ゆうべつ@サッポロ<新篠津村特別編2>
「新湧」開拓記<2> 度重なる苦難~その先に
上湧別村から新篠津村に入植した開拓団第一陣の先発隊となった10戸11人(夫婦が1組)は、昭和27年(1952年)4月28日に上湧別駅を出発し、翌29日に江別駅を経由して新篠津村に入った。
上湧別駅を出発する際、村を挙げての盛大な見送りを受けた。一行はとても感動したそうで、荘司芳竹団長は「入植後どんなつらいことがあっても、それを克服、成功することだ、と深く決意して出発した」(上湧別町史)と当時の心中を書き残している。
先発隊は29日早朝に江別駅に到着した後、貨車で運んできた食料や衣類、大豆や小豆の種子などは新篠津農協のトラックで運んでもらい、農機具や建築資材は船で石狩川をさかのぼり、入植地に近い川上地区の農協倉庫に入れた。馬や鶏などの家畜は馬車で移動して川上地区に着いた(上湧別町史、新篠津村百年史)。川上の集会所を仮の宿舎に、5月1日にさっそく入植式が開かれた。
旧上湧別町出身の新篠津村長石塚隆さん(71)はこのときまだ生まれていなかったが、第一陣が開拓地に入った12年後、一家で同じ開拓地に移り住む。
石塚さん「第一陣に叔母夫婦がいて、いとこがたまに上湧別に遊びに来たので、小学校に上がる前には新篠津村という所はなんとなく知っていました。でも、まさか自分も将来そこに行くとは思いもしませんでした」
資料をたどると、入植式後の開拓作業のスピードに驚かされる。式があった1日の夕方には原野に火を入れ、あっという間に数十ヘクタールを焼き終えた。翌日から上湧別から持ち込んだ資材の運搬班と建築班に分かれて住まい小屋造りにとりかかり、17日に全戸完成し、18日には家族を迎え入れた。さらに23日から開墾を始め、1カ月後には入植地(約300ヘクタール)の1割に当たる30ヘクタールを耕し、小豆26ヘクタール、そば2ヘクタール、大豆・トウモロコシ各1ヘクタールに種をまき終える。泥炭地にスコップで排水路を掘るところから始まったという開墾は、一部とはいえ入植から2カ月足らずでその道筋をつけた。開拓民のパワフルな働きに並々ならぬ決意を感じる。
入植地の配分は話し合いで抽選が採用されたという。最初の27年は開墾の進み具合の戸別差をなくすため共同作業だった。好天にも恵まれ、秋には小豆380俵(1俵60キロ)、そば30俵、大豆とトウモロコシは自家用程度の収穫があり、まずは順調な滑り出しだった。
この年の8月、開拓団は解散し、開拓地は「新湧」と名付けられた。
27年度は計19戸、28~29年度に11戸が入植し、計画していた計30戸がそろった。このうち26戸が上湧別、1戸が佐呂間、3戸が新篠津の分家入植と記録され、この先駆者たちが新たな土地、篠津原野の未開拓地を切り開いていく。正確な数は分からないが、明治期に湧別原野へ開拓に入った屯田兵を先祖に持つ人も含まれていたとみられる。
新篠津に移住した石塚家も、もともとは山形県から上湧別に入植した屯田兵だった。
石塚さん「屯田兵がルーツという面もあるかもしれませんが、盛大に見送られて、しかも20~30人規模で上湧別からまとまって入植したことで、一致団結して新しい上湧別をつくろうという思いは一段と大きく、それが力になったのだと思います」
しかし、順風満帆とはいかないのが開拓の常だ。
そもそもが「不毛の地」とまで言われた泥炭地で、「一面、水苔と草の根で土らしいものは何も見当たらず」「小さな沼地が至る所に散在」「人間の住むような所ではない」という嘆きも出る状況。さらに▽果てしなく続くぬかるみに「家を建てる機材の運搬に馬が使えない」「馬にわらじをはかせて開墾」▽電気も水道もなく「初めはろうそく、それからランプの灯」「ガス臭い黄色い水を生まれて初めて飲む」▽冬のドカ雪に「明けても暮れても除雪ばかり」▽ある程度覚悟したものの「理想と現実の隔たりに困惑」▽それでも「後戻りはできぬと夢中になって働いた」―開拓30周年記念誌にこんな回想がつづられている。
ちなみに、排水のため掘った泥炭土を乾燥させてストーブの燃料にできる泥炭地ゆえの"恩恵"はあったものの「冬はあまり暖かくなかった」そうだ。
開墾作業には3年から4年が費やされた。28年は共同作業を解消し、各戸の個人経営に変えた。しかし、冷害に見舞われ、たちまち生活苦という試練に直面する。開発局に陳情して請け負った排水路の掘削工事に総出であたり、その現金収入と開拓補助金で冬を越した。
翌29年に大災害が追いうちをかけた。全30戸の入植を終え、収穫の秋へ希望に胸が膨らんでいた9月26日、各地に甚大な被害をもたらした台風15号(洞爺丸台風)が襲った。「度肝を抜かされた」という台風に住宅10戸が全半壊、馬小屋はほとんど半壊以上の被害をこうむった。
石塚さん「あのころは家も大した造りではなかったので、洞爺丸台風のときは風がすごくて、家が飛ばされるんじゃないかとおっかなくて、家から子どもと布団を抱えて排水路に隠れて身を守ったという話を聞きました。家がずれたという人もいたようです」
この年は、そばは皆無、小豆、大豆は冷害も重なってほんのわずかの収穫に終わり、造材現場へ木材運搬の働きに出てしのいだ。度重なる災害が家計に痛手を与え、畑作だけでは農業経営が不安定なことから、30年ごろから畑作と酪農の複合経営や稲作への模索が続いた。
一方で、泥炭地を水田にかえる事業が動き始め、30年代半ばにさしかかったころ、篠津運河の掘削と「送泥客土(そうでいきゃくど)」と呼ばれる土地改良の工法が地域に光をもたらした。
(次回<3>「稲作に転換」に続く)
※余談ですが、いくつかの古い資料を突き合わせていると、事実関係に食い違いが出ることがあります。例えば、本文では先発隊が上湧別を出て新篠津に着いた日をメインの資料をもとに「28日発、29日着」としましたが、一部に「27日発」や「28日着」と書かれていてドキリとしました。書かずにスルーするわけにはいかない重要な日付ですので、念のため裏付けになるデータを探しました。到着日は雨で宿舎に着くころは「全員びしょ濡れ」の記述を手掛かりに、最寄りで当時の記録が残る岩見沢の気象(気象庁のデータ)を調べたところ、降水量の記録があったのは29日。しかも夕方以降にまとまった雨が記録されていました。本文ではこれを根拠のひとつにしています。
(取材・文/ふるさと特派員 島田賢一郎、写真は開拓30周年・入植50周年記念誌から)
